上海の原宿、代官山?「田子坊」360度写真

田子坊アイキャッチ

2/18の春節以降天気の悪い日が続いている上海です。

今日は観光地として人気のある「田子坊」を紹介します。

路地裏のような雰囲気の狭いエリアにアートスポット、ショッピング、グルメが盛りだくさん。
おしゃれなカフェもあります。

昨年(2014)に日本の会社の人達が上海観光に来た際、案内ルートに入っていたのですが、時間の関係で回れませでした。
社員の人達の為にもTHETAの360度写真と他にも写真をたくさん撮って来たので紹介します。

THETA360度写真

※写真の左下にある「THETA」をクリックすると別ウィンドウで大きなサイズの写真が見れます。

2015.3.5 田子坊1 – Spherical Image – RICOH THETA

△特に人気の写真のお店。田舎の子どもたち写真等が売られています。

2015.3.5 田子坊(2) – Spherical Image – RICOH THETA

△時々小雨が舞う天気。雨が降る前はお店前のディスプレイもたくさんありました。

2015.3.5 田子坊(3) – Spherical Image – RICOH THETA

△各国のお店が立ち並ぶ。日本料理の店も2店程あります。

その他お店、雑貨写真

田子坊1 お茶
△お茶屋さん

田子坊2 美容商品
△美容ショップ

田子坊3 ダイヤリー
△手帳、ブックカバー、カバンのお店

田子坊4 扇子屋
△扇子屋さん

田子坊5 灯籠
△灯籠

田子坊6 骨董品屋
△骨董品ショップ

田子坊7 写真屋
△写真屋さん。外灘のパノラマ写真や田舎の子供たちの写真など

田子坊8 カフェ&バー
△カフェ&バー。各国の飲み物が置いてある

田子坊への行き方

「田子坊」の最寄り駅は9号線の「打浦桥」。
若干乗り換えの面倒な場所に位置しています。

「いらっしゃいませ」が言えない中国人を君ならどう教育する?イトーヨカドー中国進出ストーリー(開店後編)

「いらっしゃいませ」が言えない中国人を君ならどう教育する?イトーヨカドー中国進出ストーリー(開店後編)3

前回は「いらっしゃいませ」が言えない中国人を君ならどう教育する?イトーヨカドー中国進出ストーリー(開店準備編)を紹介しました。
今回は「開店後編」を紹介します。
ようやくこぎつけた開店。しかし、まだまだ苦難は続くのでした。

トイレの紙、ゴミ箱、そして便器まで盗まれる

1997年11月、イトーヨーカドーの中国1号店が四川の成都にオープン。
開店前から大勢の人が集まっている。成都初の「日式百貨店」という物珍しさから、地元マスコミがTVで放送した効果もあった。
そして開店。
「いらっしゃいませ」とお客さんに挨拶している従業員を見て日本人スタッフは感激していた。
人の数が凄まじくエスカレータやエレベータの故障が発生する等、夜10時の閉店まで人が途切れず、慌ただしい1日が終わる。
日本人スタッフが驚いた事態。それは「盗み」だった。
客用のトイレからはトイレットペーパー、ペーパーホルダー、ゴミ箱、そして便器までも盗まれていた(便器を街で売る為らしい)
リップクリームが5000本も売れたと喜んでいたら、売れた数と同じ数が盗まれていた。
(それ以降、高価な売り物はガラスケースに入れて販売することになる。)
客だけではなく身内の犯行もあった。オフィスのパソコンまで盗まれた。
ある時ウイスキーの在庫をチェックすると箱が軽い。中身だけ盗まれていた。

売上目標に対して達成33%。しかし、、、

オープン初日の売上計算が午前2時にようやく終わった。
計算すると137万元(約2,200万円)目標の33%という数字だった。
「そんなバカな」と思う日本人達。
しかし、この137万元という数字はとてつもなく大きな数字である事がすぐに思い知らされる。
オープン3日を過ぎると売上は急降下し40~50万元になった。目標の10%~20だ。
日本の商品は高すぎた。
日本の服を最初は5000円で販売。売れないので3000円。それでも売れず最終的に150円にすると売れたという。
値切ってから買うのが常識の中国人はイトーヨーカドーでも値切ろうとするがイトーヨーカドーは値札以下の値段では売らなかった。
食品も大量に売れ残った。悲しいのは廃棄した食品に周辺の住民が群がり持って帰る姿を見る事だった。

トライアンドエラー。出口の見えない暗闇

毎日トライアンドエラーが繰り返される。
朝市で卵の特売をすると500人ものお客が集まった。しかしお客は卵だけを買うと帰ってしまった。
中国人に人気の商品を自由市場で10元で買ってきて、15元で売る事もやった。なりふり構っていられない状況。
日本の味「あんパン」は異常に売れた。行列を作り1元のあんパンを5個も10個も買っていく客。後日、街の露店であんパンが1.5元や2元で転売されているのを見る。
日本人は全員朝の7時~夜12時まで働いていた。
名誉会長の伊藤雅俊が視察した際「苦労しているな。撤退も考えないといけないな」と思った程だった。

オープン後も変わらず続く苦労。
本を読んでいて辛さ、苦しさがとてもリアルに伝わってきました。
こんな状況からどのようにして「最も成功した外資」と呼ばれるまでになっていくのか。
その秘密を次回紹介します。

僕が上海で人生最大の苦労と自信を手に入れた話

飛行機から富士山

2013年3月に上海に来て、2013年6月は僕の人生の中で一番勝負の月でした。
自社のサービスがスタートし、目標が決められ営業活動が始まりました。

この時僕に与えられた目標は「日本語が話せる中国人を200人集める(会員にする)こと」

半月過ぎても0人

メンバーは僕と中国人女性スタッフが1人。
最初はインターネットでの集客を考えた。
戦術3つ。(1)携帯メルマガ (2)微博(中国版Twitter) (3)掲示板への書き込み。

(1)携帯メルマガは1万人の携帯電話にショートメッセージが打てるサービス。
しかも日本語ができる中国人が対象のサービス。
これだけで200人の目標が達成できるんじゃないかと思っていた。
1万人中200人だから獲得率は2%。無理な数字ではない。
なるべく多くの人を獲得する為にプレゼントキャンペーンも用意した。

結果はなんと0。

なぜかわからなかった。1万人の内1人も獲得できないなんて。
「ちゃんと送っていますか?」業者に確認する。
「送っていますよ」と返事。
原因究明をしながら新しい戦術の企画を考える。時間は待ってくれない、むしろそっちが大事。
中国人スタッフが担当した(2)微博と(3)掲示板の結果を確認すると、こちらも結果は0。

半月過ぎて獲得は0のままだった。
段々と僕達は追い詰められていった。

後日わかった事だけど、携帯メルマガの業者が送った1万人は日本ができる人ではなかった。
それが判明したのは後日送られてきた送信レポートになんと1万人の電話番号が一覧で書かれてあり、無作為に30人に電話すると誰も日本語が話せなかった事で判明した。
中国のビジネスではありえないことも起こる。

足を使って営業。100人達成

半月が過ぎて0のまま。
ここで「足を使っての営業」に踏み出す。
大学の日本語化・日本語学校へのテレアポを行った。
中国人スタッフに大学と日本語学校30校をピックアップさせ、自分が電話した。中国語はできない自分。とても緊張した。
電話すると相手は中国語で出る。当たり前だ。
「こんにちは。日本語話せる人いますか?」
「ティムドン(わからない)」と言って切られる。
覚悟していたことだけど、精神的にこたえる。
こんな電話を5回、10回と繰り返す。
諦めるわけにはいかない。
そして、やっと、繋いでくれる学校があった。
日本語が話せる人(先生)に変わってくれて、「一度伺いたい」と話すと、なんとアポイントが取れた。
この時は本当に嬉しかった。

そして、後日アポイント。中国人スタッフと2人で行く。
打ち合わせでは、必死になって説明した。
説明資料は中国語版も用意した。前日に中国人スタッフが残業して翻訳した。
結果的に、この時も獲得は0だった。
相手は上海で一番の名門校で「今は不要。来年は考えましょう」という回答だった。
残念だったが、僕達の営業の姿勢はかってくれていた。少し自信が出た。

そして、その後はテレアポと飛び込み営業も含め、たくさんの学校を回った。
受付を簡単には通してくれないだろうと思い、無印やダイソーでメモ帳やカラーペンなどおもやげを持って回った。
念願の1人目の獲得は、6月22日の土曜日に飛び込み営業した徐家汇の日本語学校だった。
突然の日本人の訪問を珍しく思ってくれて、なんと授業に参加させてくれた。
生徒の為に日本人が話す日本語を聞かせたい、のだと言う。
10分程時間をもらった僕は自己紹介や日本で有名な中国の物の話等をした。そして自分たちのサービス説明も。
話し終わった後、プレゼントを配りながら名前、連絡先を記入してもらった。
10人以上が会員登録をしてくれた。
この調子で会員は100人まで集まっていった。
残りは1週間。

「残り3日。ダメだ足りない」その時取った行動

残り100人を獲得する為、中国人スタッフと土日も学校を回った。
(余談だが、本来中国人は残業を嫌がるし、させてはいけない。今は残業させていない。
でも、この時はこっちの本気度が伝わったのだと思う。残業も休日出勤もしてくれていた。)

ある日は、起きたら高熱が出ていた。だけど、休む気は無かった。
炎天下の中、初めて行く場所、印刷した地図を持って向かった。
「人民広場」という場所、日陰のない広い公園を2km以上歩いた。とても辛かった。
更に辛かったのは学校が閉校している事だった。
2013年、日本語を学ぶ中国人が減少傾向で、小さな学校は潰れていた。
ホームページには閉校のアナウンスは書かれていない。やっているものとして向かい学校が無い時は辛かった。
中国人スタッフがピックアップした30校のリストが終わりかけていた。

「ダメだ。足りない」
閉校していた学校の営業の帰り、夜の駅のホーム。
想定外の事態、しかも高熱で、最大のピンチだった。
「どうしよう・・・どうしよう・・・・」
呪文のように心の中で繰り返していた。

追い詰められていた。
でも、目標を達成したかった。
というより達成せずに終わるのが悔しかった。負けたくなかった。

この時、僕が取った行動。その瞬間の事ははっきりと覚えていない。意識が朦朧としていた。
ノートに「日本語話せますか?」と書いて歩いている中国人に声をかけていた。
駅のホーム、電車の中、そして駅の出口で。
1時間やって1人、日本語が話せる人が立ち止まってくれた。
「あぁ、良かった」
新しい戦術が見つかった。

そして最後の3日間、昼間は学校へ営業、夜は街で声掛けをした。
手にはノートじゃなく手作りした看板を持っていた。

そして最終日、200人を達成した。
この時は泣いた。本当に嬉しかった。

振り返って

これは僕の人生の中で一番自信になっている事です。
これからも何かをやる時は、必ず足を使って行動する事を決めています。
誰もやったことがない事でも、恥ずかしい事でも構わない。
失敗したって、そこから学べる事で一歩進められる。
ましてや、ここは中国。
日本では予想もつかない事が起こります。悪い展開も、そして良い展開も。
だからおもしろい中国。